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◆ 宗旨と教え
時宗宗祖一遍智真上人
- 宗派
- 時宗(じしゅう)
- 宗祖
- 一遍智真上人(いっぺんちしんしょうにん)
- 本山
- 清浄光寺(遊行寺)《神奈川県藤沢市》
- 本尊様
- 阿弥陀如来・十一面観世音菩薩
- お称えする言葉
- 南無阿弥陀仏(お念仏)
一遍上人を慕い、旅を共にした人々は「時衆(じしゅう)」と呼ばれました。
上人率いる時衆は念仏を称え、身分に関係なくあらゆる人々に救いの手を差し伸べました。お念仏の「念」は今の心と書きます。
時宗の「時」とは、今というこの時の心の有り様を大切にし、いつ何時も阿弥陀如来に見守られ共にある安らぎと歓びを感じることです。一遍上人は「捨聖(すてひじり)」と呼ばれ、武士の身分・家・家族という目に見えるものから、自尊心・道徳観・人生観など自身の心の中にある大切なものも執着のもととして、全て捨て去りました。それにより過去への追慕と後悔・現状への不満・未来への期待と不安など心の迷いは一切なく、只今という時だけに全てを委ね、「南無阿弥陀仏と一体化し、南無阿弥陀仏にまかせきる」境地に達することができたのです。
◆ お寺の成り立ち
戦前の本堂・庫裏
- 開基した年
- 延慶元年(1308年)
- 開基した人
- 他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)
- 山号・院号
- 梅松山・天寿院(ばいしょうざん・てんじゅいん)
正応2年(1289年)8月23日、一遍上人は兵庫輪田の観音堂(現在の真光寺)にて入寂(死去)しました。そして正安3年(1301年)秋、後を継いだ他阿真教上人は師である一遍上人の13回忌法要を同地に建てられた御影堂で執り行いました。その道中現在の柳原天神社辺りを通りかかった際菅原道真公自作の観音像を参拝し、この地に時衆の念仏道場を置いたのが満福寺の始まりといわれています。
「梅松山」の由来は、古来より兵庫輪田一帯に松と梅林の美しい景色が広がっていたこと、そして「天寿院」は満福寺と柳原天神社の関係によるものと思われます。
寺記によりますと、道真公自作観音像を本尊に阿弥陀如来・聖観音・勢至菩薩の三像は鎌倉前期の仏師運慶作として伝えられており、境内一町(約100m四方)にわたり片桐市正(片桐且元・豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人)によって黒印を下附されていました。
江戸時代特に西暦1600年代後半から1700年代は満福寺が最も繁栄した時期で、伝説の住職で大徳者の蓮阿上人が活躍し時衆兵庫道場として大いに発展しました。
明和5年(1768年)5月24日、尼崎藩主松平氏が兵庫津巡見の際、「満福寺にて子供角力(すもう)を見」との記述が見えます(神戸市史より)。
戦前は兵庫津の有力商人らの支えもあり大伽藍を維持していましたが、昭和20年戦災により全伽藍が焼失しました。道真公自作観音像も残念ながら焼失しましたが、昭和41年に新刻され現在は本尊阿弥陀如来の胎内仏として祀られています。その他幾多の苦難を乗り越え同43年本堂落慶法要、平成26年庫裡客殿(大悲殿)落慶法要を以って戦後及び阪神淡路大震災からの完全復興を果たし、現在に至っております。
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雪見障子と遊行の庭
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梅松山の象徴 白梅と五葉松
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大悲殿畳床と水墨画・生け花